スターリンとプロコフィエフの命日
- 井上靜

- 2022年3月5日
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3月5日はスターリンとプロコフィエフの命日だ。
この二人は同じ日に死んだ。スターリンは主治医に控えるよう言われていたサウナに入って、出てこないからどうしたのかと周囲が心配したら倒れていて、そのまま死んだらしい。
プロコフィエフはずっと前から病気で、作曲は一日一時間までと医師に言われるほどで、健康だった若い頃を想いながら『青春交響曲』を作ったと言われている。
プロコフィエフはウクライナの出身だが、それを意識したような民族主義的作品は無い。物語のある音楽でも『ピーターと狼』とか『三つのオレンジへの恋』とか『ロメオとジュリエット』とかである。
よくプロコフィエフとライバルと言われていたショスタコーヴィチは、プロコフィエフの葬儀に出ていた。二人の間に不仲説があったけれど、これはどうせモーツァルトとサリエリみたいに面白おかしく言われただけで、オーストリア皇帝の代わりにスターリンだったのだろう。音楽家がライバルを出し抜こうと権力者に取り入る話は面白いから。

ミュンヘン・フィル首席指揮者のゲルギエフが解雇されたそうだ。
プーチン大統領と親交があり、それをとやかく言われたが無視していたからだそうで、「そんなこと関係ないだろう。くだらない。こっちから願い下げだ」とタンカきって辞表を出すかと思っていたが、シカトしてクビというのは不可解である。
彼にとって大切なのはマリンスキー劇場の地位であって、こっちが優先だったのではないかと噂されている。まあ、東京都交響楽団の人たちも、石原慎太郎都知事に忠誠を誓おうと言っていた。音楽家なんて、しょせんはそんなことばかり気にしているものだ。プロコフィエフだって、革命の混乱を避けて日本経由でアメリカに行き、しばらく亡命生活していたといわれるけれど、もともと演奏旅行に出ていたし、革命とか政府が打倒されたとか意味がサッパリ理解できなかったようだった。
プロコフィエフは13歳の時に音楽院で作曲科に入学希望ということで何か作品を出すように言われたら、分厚い楽譜の束をもってきて、何かと問われたらオペラが二つと言ったので驚かれ、最初にオペラを作ったのは8歳の時だった。だから天才だと言われたけれど、そんな小さい頃から音楽ばかりやっていたら、世事に疎くなっても当たり前である。
猿回しについて、どう思うか、猿に意見を求めてもしょうがないだろう。

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