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『ゴジラ-1.0』は『鯨神』

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2024年11月12日
  • 読了時間: 2分

 地上波放送で議論の『ゴジラ-1.0』は科学文明批判が欠如していたという話題だった。

 それについては先日とりあげた通りである。


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 この映画の結末について、こんな解釈がある。

 あの、死んでいないわけがない女性が生きていて、負傷し入院している。それはゴジラの細胞によって再生されたからで、ゴジラに止めを刺した特攻隊崩れの男性も戦いのなかで撒かれたゴジラの細胞を浴びている、という説である。

 こう解釈できるほのめかしがあるうえ、そうでもないとあり得ない奇跡の生存だから。正しいかもしれない。


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 そうなるとゴジラではなく『鯨神』である。

 『鯨神』は、官能小説で知られる宇能鴻一郎が小説家としての初期に純文学で受賞した小説を原作とした映画である。巨大で狂暴な鯨を、西洋人の宣教師は「悪魔」と言うが、日本人は恐ろしいけれど神であると考える。それを退治するのに命を賭けて、自然を克服したのではなく、鯨神との戦いで重症を負った漁師は鯨神を殺した自分は死んでから自分が鯨神になると言う。

 このように東洋的な宗教観に基づいていて、ここへ伊福部昭の音楽は民俗的な響きを轟かせる、というわけである。


 こうなると科学文明批判ではなくなる。

 そもそもゴジラの一作目は明確に文明批判が主題であり、観た三島由紀夫もそれを言っていた。ゲテモノ映画だと言う人がマスコミに多かった中で、三島由紀夫は評価していた。ちなみにゴジラが最初に出現した架空の島は、三島由紀夫が原作の『潮騒』と同じ時期に同じロケ地であった。だから三島由紀夫は観たのだろう。

 ところが宗教的になると、放射能とは関係がなくなる。



 マーヴェルのコミックと同じである。

 伝説の生物ゴジラは恐竜の生き残りのようだったが、太平洋で核実験が繰り返された後に出現すると、巨大化していて背鰭が原子炉のように青光りし、熱線を吐くと核爆発のようになる。

 よく、マーヴェル社のコミックで主役となる突然変異のヒーローと同じだ。材料にしているだけで文明批判は皆無である。

 これがハリウッド映画ならともかく、日本人の手による映画だから、時代が変わったというだけでなく監督の姿勢に批判が起きたのも当然のことだろう。

 

  

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