- 井上靜

- 6月16日
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タレントの中川翔子の投稿が批判されている。
彼女は、他人を攻撃するためにSNSを使う人とは関わりたくないと述べ、そういう言葉は自分に返ってくるとか、可愛いとか美味しいとかのことばかりになるのが良いとか、そういう趣旨の話をしていた。
これに対して、そんな単純な話に実社会でなるはずはないという指摘が出ていた。また、そういう言い方をしていると、よく、政治を批判したさいに封じるなど危ないことにつながる現実があるから、ちょうど糸井重里がやってきたのと同じで権勢に媚びる発言の正当化で言う言葉だという指摘もされていた。

よく、医者が患者や女性の看護師をSNSで攻撃している。
そんな医者には病気になってもかかりたくないものだが、そういうことをしている人は自分が偉いと勘違いしている発言が目立つ。なんで皆が幸せになれることを願わないのか。
しかし、それとは明らかに違う中川翔子の発言であった。せいぜい、物事の本質から目を逸らして上辺だけ取り繕うくらいのことを望んでいる人が言う内容だった。
小説家の田中小実昌も同じだった。
あれは差別の問題について述べていたさいに、いやな仇名で呼ばれたことに抗議する人が、そんな呼び方はやめて、ちゃんと本当の名前で読んでくれと言ったら「こういう人は好きではない。それより大切なのはみんなと仲良くすること」と結んでいた。
これでは失礼な人や嫌な奴に対して我慢すれば円満だということになってしまう。これが逆に抗議された側の人が思いやりから素直に聞き入れてやれば仲良くできると諭すならともかく、貶められた人がされっぱなしでいればいいと言う。
こういう人たちの卑劣な手口は共通している。
中川翔子の投稿で田中小実昌の発言を思い出したのは、どちらもことさら素朴な言葉の表現をしているからだ。そうすることで、自分が権勢に媚びて弱い者いじめしていることを誤魔化してしている。
昔からよく使われてきたけれど、とっくに通用しなくなっている。それをまだ使えると思っているところが痛々しい、中川翔子の投稿であった。


