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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 8月13日
  • 読了時間: 4分

 学校の国歌斉唱に拒否を表明した親がいる。

 「君が代は歌いません!」とプラカードを掲げて。時々、各地の学校の卒業式・入学式であることだ。これに対して、生徒・児童のことを考えて無いとか、嫌なら日本から出ていけとか、そういう非難をしている人たちがいる。ネトウヨが悪ふざけで言っているだけではなく、昔から権力に媚びるマスコミ人たちが商売で言ってきた。

 そう言うなら、先ずちゃんとした国歌に変えてからだ。


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 もちろん、外国では、卒業式・入学式なんて無駄なことをやらないことがよくある。

 そういう問題は別にして、『君が代』を国歌にするから、拒否する人たちが出る。拒否してない人でも内心では拒否したい人は大勢いる。蛮勇を発揮する人と、そうでない人の違いがあるだけだ。

 そこには、『君が代』の調子が陰気臭くて嫌だと言う人がいる。これはスポーツ選手に言うがよくいる。政治的なことではなくフィーリングの問題である。

 それより明瞭な問題は歌詞である。


 諸外国には国歌が無い国がある。

 国際的な場で、だいたいは国歌のメロディを演奏している時に、これに相当する音楽を流すよう制定しているわけだ。そういう儀式では必ずしも唄う必要がないのだから、音楽だけあればいい。歌詞があると、内容によって賛否が生じやすい。それを避けることができるから、国歌は無く、儀式の音楽を制定するということだ。

 また、国歌らしくない歌詞の国歌もある。これは、その国の歴史的経緯から、国歌でなかったけれど記念に国歌とした歌である。

 こういうのは例外的と言っていい。


 普通、国歌とはアンセムつまり賛歌である。

 だから、祖国を称えて繁栄を祈り、国民の幸福を願う、という歌詞であるものだ。そういう歌であれば、儀式で唄うことに反発は少ない。それでも拒否するのは、アナーキーな人とか、神ではなく人が作ったものを称えるべきでないとか、そういう人たちである。

 ところが、特定の政治思想に基づいた歌詞の国歌だと、それに反対する人がいて当たり前だ。しかも、封建時代には専制君主を称える国歌が当たり前だったけれど、その国歌を現代になっても維持している国があり、これだから反対や拒否が出る。


 具体的には英国と日本である。

 英国では、北アイルランドとスコットランド分離独立の問題があって、英国の国歌を拒否する人達がいる。スポーツ選手で国歌を唄ってない人は、その事情からである。

 日本なら、沖縄が昔は独立国だったのに侵略併合された歴史があり、今も迫害は続いているから独立論がある。それで拒否する人がいて、日本の他の地域とは違う事情がある。

 しかし、それより、そもそも封建制度の下で専制君主を称える歌がそのまま国歌になっていることで拒否する国民がいることで共通している。専制君主を称える歌の歌詞を変えて国歌にしている国もあるが。

 とにかく、英国でも、王政を廃止し国歌も変えるべきという国民がいる。


 日本は英国に倣っている。

 だから同じ趣旨の国歌だが、日本の憲法は国民が望めば改訂できると規定されている。これは第一条の天皇についても他の条文と同じである。天皇を無くし、議院内閣制をやめて、大統領制にするべきという国民は増えている。政権与党内の派閥による勢力争いで決まる政権だから、政治腐敗が起きて、有権者不在で白け、選挙の投票率が低い、ということは議論の余地もない事実だが、この原因は今の憲法に規定されている議院内閣制であり、そうなっているのは天皇が居るからだ。英国に倣った制度だからだ。

 だから改正するべきだと言う国民がいるのに、天皇が半永久的に存続するよう願う歌詞の歌を国歌にして、学校などで強制して子供の頃から洗脳するということをやっている。こんな国歌は駄目だと言う国民がいて当たり前だし、その意見を表明する権利が憲法で保障されているのに、それを弾圧・迫害しているのが『君が代』である。

 また、もしも、平和と戦争放棄を称える歌詞の国歌だったら。おそらく、平和憲法を否定したい人たちは拒否するだろう。憲法には改訂の規定があること根拠にして。



 『君が代』を国歌にすることも、公教育の場で唄わせることも違憲である。

 ところが昔から、日本だけは君主と国民が一体だとか気持ち悪すぎる屁理屈を言ってなんとか正当化しようとする人がいた。政府だって言ってないことであるし、後付けであるし、事実に反していて説得力が皆無である。

 せめて、普通の国歌すなわち祖国の繁栄を願うなどの歌詞の歌にしてから、それでも批判する国民に文句を言うべきである。 

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 8月8日
  • 読了時間: 4分

更新日:8月9日

 知念美希人が新潮社を罵倒した。

 これがバツ(旧Twitter)で話題になっていた。新潮社が「あらゆる差別に反対します」と表明したことを「偉そうに」と言って。

 新潮社は、たびたび発行雑誌が差別やヘイトをしでかして抗議されてきた。かつては週刊誌の見出しに身障者差別用語を使い、新聞に掲載するさいその部分を消されたことがあったり、あの杉田水脈の露骨な差別発言を雑誌に掲載して抗議を受けたり。最近では小説家の深沢潮らについて在日韓国人の家系であることをあげつらうコラムが抗議を受けて会社が謝罪した。

 それでいて、よくも「差別に反対」と言えたものだ、ということかというと、そうではない。


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 まず「偉そうに」は明らかに不適切である。

 これが、差別の問題で一席ぶっていたら「偉そうに」でもいいが、ただ差別に反対だと言うだけある。差別に反対なんて当たり前のことだ。

 それに新潮社は、差別で批判されたことに対して反省または弁解として、差別に反対であると表明したのだから、それが本心なのかと疑問を呈するのは相当な表現だけど、「偉そうに」は違うだろう。


 なにより知念美希人が新潮社を非難して言う「差別」がデタラメだ。

 コロナウイルスに絡んで医療関係者に利権が発生している、という週刊新潮の記事は、従事する医療関係者に対する「差別」だと彼は言うのだが、それは差別とは違うという指摘がたくさん出ていた。

 そもそも差別とは、属性のような当人の責任ではないことで以て正当な根拠なく一般とは異なる悪い扱いをすることである。なにか訳があって正当な批判あるいは不当な誹謗をすることは、どちらも差別とは違う。

 だから、週刊新潮が批判または誹謗をして、前者ではなく後者だから不当だと言うならともかく、差別したと非難するのはデタラメだ。


 かつて渡辺淳一が「和田心臓移植を批判して札幌医科大学を辞めた」と言った。

 札幌医科大学の和田教授は、日本初の心臓移植を成功させた医師になりたいという功名心から、本当に脳死したか解らない人から勝手に心臓を取り出し、心臓の全移植が不必要な患者に移植して死亡させた。このため教授は人体実験と非難されたうえ殺人罪で告発された、という事件である。

 これを批判して辞めたなんて言わなくても、もともと渡辺淳一は医師より『失楽園』を書いているのが相応しい人だと言われていた。

 それと同じことで、知念美希人はライトノベルを書いているのが相応しい人だ。医師は真面目にやれば仕事とその勉強に大忙しで、小説を書いたりバツ(エックスとも言う)の投稿をしたりなんて暇はない。だから研鑽や精進せずSNSで遊んでいる医師は駄目だと言われているし、よく看護師が言うことだけど、そんな医師は患者や看護師の女性の悪口を言っているもので、差別意識を剝きだしているから危ない。


 差別ではないのに差別だと言うのは手垢の付いた手口である。

 正当な批判ではなく不当な誹謗だ、と言うのなら相当の根拠が必要であるけれど、差別だと勝手に言うのは簡単だから、いい加減な攻撃方法としてよく使われる手口である。自分の責任ではない属性に対してのことだから差別だと言い得るのに、考え方が異なることで非難されたことを差別だと言う。これは安易だからやる人たちがいるのだ。

 例えば、職場で業務と無関係のことで昇給させなかった訳が、性別や人種や出身地であれば、自分で選んだことではない属性による不当な扱いだから差別になるが、支持政党や宗教の信仰であれば自分で選択したものだから差別ではなく、思想信条に対する弾圧として不当である。


 こういう違いが解らない人がよくいる。

 しかも知念美希人という人は、前に韓国人に対する民族差別の発言で問題になり、謝罪に追い込まれたばかりである。それでよくも新潮社を罵倒できたものである。

 しかし小説家として注目はされる。マスコミとしてはネタになるからだ。けれど、その発言を医師やインフルエンサーとして取り上げるべきではないと議員などが言っていた。そういう声に対しては、ごもっともというしかない。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 8月5日
  • 読了時間: 2分

更新日:8月13日

 NHKの子ども番組で日本の中国侵略について言及されたことに対してSNSの反応。

 反論というより激しい罵倒だった。戦争があった現地での個々の事象に対する意見ではなく、大雑把に「侵略ではない」と声高に叫ぶ。

 そんなことは岸信介だって中曽根康弘だって言わなかった。


 では反論している人々の根拠とは何か。

 開戦の詔勅だったり、東南アジア諸国の一部の政治家の発言だったり、帝国主義的情勢からの正当化だったりで、中国ではなく朝鮮半島に関しては、植民地ではなく併合だとか、いいこともした、などなどもう20年、30年前から議論しつくされ、ネット上でもさまざまな史料から否定されているものばかり。

 そんな話をしている人たちが増加して、国会議員にまでなった人がいる。投票した人達がいるからだ。


 でもこれは昔からのことで、今はSNSに反映して解かり易くなったという違いだけだろう。

 こういうのは、自分が子供のころから後に話を人から聞いた話まで共通して、まず間違いなく、お父さんが言うからそうだと子供は思うのだ。学校で教えても報道されても親父が頭ごなしに否定し、教師やマスコミはアカだから信じては駄目と言う。まともに根拠なんかない。自分の頭で理解できないとか、権勢に媚びる癖がついたとか、お粗末な事情だ。

 そんなお父さんは反知性主義者なもので、そんな者たちがいることに世代差は無いのだ。世の常である。


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 子供が成長して後から気づく場合もある。

 そして父親にその誤りを指摘すると、不快感を露にする。子供がちょっと勉強したら、それを生意気だと感じるからだ。

 しかし反知性主義は再生産される。そんなお父さんがいるのは、そのまたお父さんがそうだったからなので、同じようにして子供に受け継がれてしまう。

 つまり時代の変化などではないし、戦争の記憶が時間の経過とともに薄れてきたためでもない。ただ、水は低きに流れるというだけのことだ。だから嘆くのではなく、そんなことがあるというのを当然の前提として念頭に置いておくべきことなのだ。 

 
 
 
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