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​炬火 Die Fackel 

 生活困窮者支援の給付金に現役世代が反発しているらしい。

 これは、所得が無くて住民税が非課税になっている人たちを生活困窮者として給付金を出すことに対し、年収が五~六百万円の人たちが、自分は高額所得者ではないのに高い税金を納めさせられ、その税金から、主に高齢者の働いていない人たちに対して金員を渡すなんて理不尽、と言う反発だ。

 

 この給付金は億万長者にも渡る。

 なぜなら、何十億円もの莫大な資産を持つ人が、たまたま経済的情勢から売ると損なので控えたところ投資の売却益が無くなり、所得なしで住民税が非課税となり、そうしたら生活困窮者と同じとみなされて給付金が出るという次第だからだ。

 そんな人にとっては雀の涙の給付金など無用だが、お小遣いとして受け取ると言う人がいた。


 こうなってしまうのは所得源泉説に基づいた税制だからだ。

 これは、あの源泉徴収の源泉を所得と見るものだ。だから金が入ってきても、それがあり得ないとなれば所得も無いことになってしまう。例えば、かつて風俗店で働いていた女性が、確定申告のさい、収入を得たことについて正直に「買春」と書面に記入したら、これは非合法だから所得は無かったことになり、課税されなかったということがあったそうだ。


 ところが、純資産増加説に基づけば変わって来る。

 これは最初の入口ではなく結果を所得と見て、純資産が増加した分だと考える発想である。

 あのギャングのアルカポネは、密造酒で大儲けしたけれど、それは非合法だから儲けが無かったことになったものの資産は増えていたので、そこをアンタッチャブルに目を付けられ脱税でパクられたのだった。



 こうした所得と税制という考えをできない人が多い。

 だから、昔から所得源泉説ではなく純資産増加説で考えるべきだと指摘されてきたけれど、資産家や悪い人に好都合な制度は改まらず、この意味が解らない人たちが、税金を取られてばかりだと不満を

言い、高齢者などの生活困窮者に八つ当たりするのだ。 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2024年11月20日
  • 読了時間: 3分

 『こどもしょくどう』という映画がある。

 食堂を営む夫妻(常盤貴子と吉岡秀隆)の小学生の息子が、同じ学校の同級生を毎日のように自宅に連れてきて一緒に食事をしている。その同級生は事情あって自宅で満足に食事がとれない。母子家庭で、派手な身なりの母親は自宅のアパート一室に男性を連れ込むことしばしば、という事情であった。



 そして息子はスーパーで万引きをする女の子を目撃する。

 同じくらいの学年だ。店主に見つかってしまうが、着たきりで洗濯もしてない服装のため店主の妻が同情して、見逃してやるからもうするなと注意し、パンを一つ恵んでやる。夫に甘いと言われが、あの恰好では何か事情があるので気の毒だと妻は言う。


 その女の子は小さい妹と一緒に車中泊していた。

 父親が一緒だったけれど、そのあと行方不明になる。これを知った息子は差し入れをしてやるが、そのあと姉妹を自宅に招き、彼女たちも同級生と一緒に食事をする。姉妹は、前に親子四人で旅行してリゾートホテルに宿泊した楽しい思い出を語る。それが何でこんなことになってしまったのか。彼の両親は心配しながら、公的機関に相談するべきかなど悩んで議論にもなる。


 このことをきっかけに、夫妻の営む食堂は、店頭に小学生以下は無料という貼り紙をして、すると身なりからしていかにも事情があるという感じの小学生たちが来るようになる。


 こども食堂は実際にある。

 そこで自衛隊が勧誘していたので露骨だと言われた。自衛隊なら三食が保証されていると謳うから。そもそも自衛隊の勧誘は、大型免許が取得できるなどスキルが身に付くというものだった。それが三度の飯になってしまった。戦ってもらう代わりに飯を食わせるという『七人の侍』である。しかし貧しい農村だから侍に米の飯を差し出したので、それを国がやるということは日本が貧しい農村と同じになってしまったわけだ。



 また、自衛隊の食事は御代わりできないらしい。

 食事に事欠く子供に、食べられるだけでありがたく思え、御代わりなんて生意気だ、というのでは『オリバーツイスト』の孤児院である。米軍では精をつけるため食事はいくら食べても良いらしい。「腹が減っては戦はできない」から。



 これでは自衛隊が外敵と戦えない以前に叛乱がおきかねない。

 まるで『戦艦ポチョムキン』みたいに食い物の恨みで『亡国のイージス』みたいなことが起きる。



 こうなるのも、今は親の七光りで苦労知らず世間知らずの自民党議員が外国のカルト団体である統一協会と癒着して日本国民を苦しめているからだ。

 その被害に遭った家庭の出身者である元自衛官が安倍晋三を射殺した。まだ裁判が開かれないというのは、よほど後ろめたいことが政府の側にあるからだろう。



 ここまで日本は落ちぶれたのだ。

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2024年11月12日
  • 読了時間: 2分

 地上波放送で議論の『ゴジラ-1.0』は科学文明批判が欠如していたという話題だった。

 それについては先日とりあげた通りである。



 この映画の結末について、こんな解釈がある。

 あの、死んでいないわけがない女性が生きていて、負傷し入院している。それはゴジラの細胞によって再生されたからで、ゴジラに止めを刺した特攻隊崩れの男性も戦いのなかで撒かれたゴジラの細胞を浴びている、という説である。

 こう解釈できるほのめかしがあるうえ、そうでもないとあり得ない奇跡の生存だから。正しいかもしれない。



 そうなるとゴジラではなく『鯨神』である。

 『鯨神』は、官能小説で知られる宇能鴻一郎が小説家としての初期に純文学で受賞した小説を原作とした映画である。巨大で狂暴な鯨を、西洋人の宣教師は「悪魔」と言うが、日本人は恐ろしいけれど神であると考える。それを退治するのに命を賭けて、自然を克服したのではなく、鯨神との戦いで重症を負った漁師は鯨神を殺した自分は死んでから自分が鯨神になると言う。

 このように東洋的な宗教観に基づいていて、ここへ伊福部昭の音楽は民俗的な響きを轟かせる、というわけである。


 こうなると科学文明批判ではなくなる。

 そもそもゴジラの一作目は明確に文明批判が主題であり、観た三島由紀夫もそれを言っていた。ゲテモノ映画だと言う人がマスコミに多かった中で、三島由紀夫は評価していた。ちなみにゴジラが最初に出現した架空の島は、三島由紀夫が原作の『潮騒』と同じ時期に同じロケ地であった。だから三島由紀夫は観たのだろう。

 ところが宗教的になると、放射能とは関係がなくなる。



 マーヴェルのコミックと同じである。

 伝説の生物ゴジラは恐竜の生き残りのようだったが、太平洋で核実験が繰り返された後に出現すると、巨大化していて背鰭が原子炉のように青光りし、熱線を吐くと核爆発のようになる。

 よく、マーヴェル社のコミックで主役となる突然変異のヒーローと同じだ。材料にしているだけで文明批判は皆無である。

 これがハリウッド映画ならともかく、日本人の手による映画だから、時代が変わったというだけでなく監督の姿勢に批判が起きたのも当然のことだろう。

 

  

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