top of page

​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 4月19日
  • 読了時間: 2分

更新日:4月19日

 功成り名遂げた人は都会に住むものなのか。

 先日、ちょっとマスコミに顔を出していたから知られている人が、地方で仕事を得て地元に居を構えていることを、都会に住めなくなったのかと言われていた。それなりの仕事があるなら地方だって良いことがある。もちろん地方ゆえの余計な出費もあるから、具体的な計算と比較をしなければ何とも言えないが。

 また、一旗あげたくて都会に出てきたけれど挫折して地方に帰ることもあるけれど、それは都会に住めなくなった、というのとは違う。


 都会に住めなくなった人は、地方というより新興住宅地に住むものだ。

 それで犠牲になる子供たちを、アメリカ映画『レベルポイント』が描いていた。監督は、後に『告発の行方』などを撮るジョナサン=カプラン。ここの住民は「都会を捨てた人達」と呼ばれるが、近い時期にヒットして続編も造られた『アドベンチャーファミリー』(スチュアート=ラフィル監督)のように、大気汚染を逃れるために都会を去って山奥に移住して自然と格闘する家族とは違う。

 その新興住宅地では、まだ完成しない家が並び、映画館など娯楽施設が無い。田舎でも自然の中で生活しているのでもなく、ただ半端な町で殺伐とした雰囲気でさえある。


ree

 唯一の娯楽場は、児童館的な溜まり場のみ。

 これを警察は非行の温床と見ている。これは警戒しているというより子供たちを見下しているからだ。その証拠に、一部の素行が良くない少年を見張っているさい、そうではない他の子供たちに対しても威圧的である。こうなるのは、親が社会の「負け組」だから。

 では学校の教師は何をしているのか。非行があってから教師は非難されるが、そうなる前に子供たちの問題について懇談会を開催しても、親は出てこない。まるで無関心。何かと意識が低いからだ。そんな親ほど後から文句を言う。

 ついに十代の鬱憤が暴動を起こし、制圧されて、関与した子供たちは鑑別所に送られる。普段は真面目な子まで。


 この映画は、あの当時(1970年代)に、よく描けたというものだった。

 どうやら物語の一部に実話が混ざっているらしく、それで細かい部分の配慮が効いているのだろう。これが日本のドラマだと、だいたい都会と地方(田舎)という単純二分化になっているし、新興住宅地を取り上げてはいても、そこでの生活を強いられる子供という視点は無かったはずである。

 そのようにしかドラマが作られない日本の事情、すなわち一般的な社会意識の低さが、名を知られた人が地方に住むことを、都会に住めないと誤認させるのだろう。


 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 3月1日
  • 読了時間: 3分

 『ベルサイユのばら』が、また話題だ。


ree

 これで改めて原作の漫画を読んだ人が、主人公のオスカルは六人姉妹の末っ子だから姉が五人もいることに気づいたという。つまり、女の子ばかりで跡取り息子がいないから、苦肉の策で末娘を男だということにしてしまったわけだ。それで軍隊に入り指揮官にもなる。

 ところが、六人目は男の子だったのが大騒ぎになった。


 それは韓国でのこと。

 九十年代だったか。子供が六人で、親の所得が少ないから「貧乏の子だくさん」だった。それで五人の女の子たちが服毒自殺を図った。殺鼠剤か何かを使ったが死なず、未遂に終わった。これがマスコミに取り上げられると、韓国中から同情のお金が送られてきた。しかし母親は憐れまれるのを嫌がり、貧乏をひけめに感じないよう子供たちには強く言い聞かせていると言って反発していた。

 しかし、どうして貧乏なのに六人も子供を作ったのかと疑問を呈された。


 女の子が五人のあと六番目は男の子だった。

 その父親は、女の子ばかり生まれるので、男の子が生まれるまで何人でも子供を作ろうと思った、と言っていた。それでやっと男の子が生まれ、両親は大喜びで息子ばかり可愛がるから、その姉たちは、一番目と二番目の姉が相談して、妹たちに皆で死のうと言った。両親にとって意味があるのは弟だけで、自分たちは邪魔だから。

 このことが判ると、また大問題になった。韓国社会に根強い男尊女卑が悲劇の原因だった、ということで。


 『ベルばら』は封建制度批判だった。

 それで革命がおきて身分制度などなくなり、そのきっかけになったバスチュー牢獄襲撃事件にオスカルの指揮する部隊も手を貸して、窮地の牢獄側が指揮官を狙い撃ちしたのでオスカルは絶命するという最後であった。

 ところが革命があっても跡取り息子にこだわったのが中国だった。人口抑制のため「一人っ子政策」をとっていたら、女の子だと判ると妊娠中絶してしまう家庭があった。これで人口の男女比が不均衡になってしまった。跡取り息子ができても嫁の来手がないのでは困る。そして女の子のいる両親に、お宅の娘をうちの嫁にと札束を積み上げる。人民元に印刷されている毛沢東が生きていたら、どう思っただろうか。


 一人っ子政策は少子高齢化になるので中国は止めた。

 そして政府が、女の子に婿のほうが大勢の候補者から選べるから良いし、女の子の方が可愛いという趣旨の広報をしていた。だからディズニーの『ムーラン』の実写版に、中国政府は強力したのだろうか。ムーランもオスカルのように男装して軍隊に入るが。

 それはともかく、今時の日本では、跡取り息子にこだわるのはあの「やんごとなき」家くらいではないか。そして深刻なのは少子化と人手不足だろう。あのイーロンマスクも指摘していた。

 
 
 

 北原みのりが、伊藤詩織の映画を擁護する人たちは、加害者の男が安倍政権と密接な関係であるから政権批判に結びつけたがる左翼だ、と決めつけていた。

 これは奇妙である。逮捕状を握りつぶしたことは法治国家にあるまじきことで、特に左翼として問題にすることではない。

 この北原みのり式ネトウヨ的な発想が、伊藤詩織バッシングの総ての根幹にある。そう考えれば叩いている連中について実によく納得できる。


ree

 また、北原みのりが共感する弁護士の発言にも驚愕させられる。

 その弁護士の発言とは「恩を仇で返してはいけない」であった。弁護士と依頼者は契約関係である。法的な問題があれば個人的に指摘などするべきものだし、それをはみ出してはならない。「法は道徳に踏み込まず」の大原則があるからだ。

 だから、その元代理人たちの言動には、他の弁護士たちからも批判が出ている。


 その元伊藤代理人の弁護士の資質は前から問題だった。

 これについては、ここを訪問して閲読している人たち、および前に書いていたblogの司法問題を閲読していた人たちなら、既に知っていることだ。もう随分と前に、伊藤詩織さんは、こんな弁護士を雇って大丈夫なのか、と述べていた。

 また、小説家が権勢に媚びてイジメのような発言をして無知をさらけ出していることも滑稽だが、ジャーナリストを名乗る連中が知ったかぶりして「伊藤詩織は駄目だ。ジャーナリズムとは~」と偉そうに説いているのも滑稽である。 

 

 そういう実態を曝け出すようにしてくれたのも伊藤詩織の功績と言える。


 
 
 
  • twitter

©2020 by 井上靜。Wix.com で作成されました。

bottom of page