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​炬火 Die Fackel 

 小説の投稿サイトに以下の作品と説明を掲載した。

 

前書き転載


 この小説は、かつて紙製冊子の同人誌に発表したものです。

 それを読みたいという人たちがいるので、ここに再掲載しました内容は、女性と女性の友情と生き方の物語で、設定などは特異かもしれませんが、普遍性のある設定にしているので、誰でも容易に理解はできるかと存じます。 あと、数字が漢字であるなど縦書きが前提になっているので、なるべくなら縦書きに表示して読んで頂きたく存じます。

 また、書かれた当時の反映で、インターネットも携帯電話も劇中で使われていませんが、時代とは関係なく、使う場面が描かれていないだけで、物語の筋にとって必要が無かったということです。


後書き転載


 劇中に登場するPMBことプラグマティック=ミサ=バンドとは、ジョンレノンがやっていたプラスチック=オノ=バンドと、その影響かサディスティック=ミカ=バンドというのがあったことを念頭に置いたネーミングで、これを率いるミサこと多奈部美早とは、ガールロックの先駆けと言われる歌手の渡辺美里から取って付ました。「わたなべみさと」の最初と最後を取ると「たなべみさ」になるという訳で、しかしモデルではありません。目が大きいという描写があるので、その程度の共通点くらいです。また、渡辺美里なら絶対に言わないセリフばかりです。例えば作曲で「唐突な転調」「木と竹を繋いでいる」というのは、よく小室哲哉が言われていることだから、その小室哲哉の歌を最もよく歌いヒットさせている渡辺美里が言うわけありません。それに、あくまで美早のキャラを表すセリフであるから、そういうメロディがダメだということではありません。


 もともとアニメ映画の原作にしたかったので、劇中でミサが作って歌う楽曲を作ってもいたのですが、今となっては通用するか疑問なので、もしも映画化できたら作り直す必要がありそうです。

 使い道がなかったから、知人がやっているバンドのレパートリーに貸して、ヴォーカルの女子高生が自分で作詞作曲編曲したことにして歌い、その当時は褒められていました。

 一方、主人公のリエについて、最初の紙誌掲載で、読んだ人は「女性にとって男性は一過性の存在ということか」と言ったものでした。そしてリエとミサという二人の女性の関係は同性愛ではなく現実逃避と異常心理によるものであると読解した人も少なくありませんでした。あとは読者の解釈次第です。 

 リエとミサの出会いを描いた話もあって、そこではミサの生い立ちが語られています。読んでお判りのとおり彼女の親は相当に富裕で地位がある人らしいけれど、実はミサは養女で、10歳の時に両親を亡くしたため貰われてきたのでした。

 これは後に、また、ここへ転載しようかと考えています。(追記。転載しました。読んでください)



 上記がアクセス数で紙冊子の発行部数をはるかに上回った。

 それだけの力がインターネットにあるということになるが、ただ、紙冊子は製作するさい仲間たちと一緒に楽しんでいたし、さらに楽しいのは仕上がってから飲み会になってお互いの作品のこき下ろし合いをすることであった。

 このことと、読んでくれる人の数が多いのと、どちらが良いだろうか。


そのリンク どうか訪問してみて。




 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2025年9月30日
  • 読了時間: 2分

 「無言の帰宅」という表現がある。

 これはマスコミが乱用するので紋切型の表現というのが一般的な印象だと思ったら、ちょっと違うらしい。ある小説家が「無言の帰宅」を使ったら知らない人が文句を言ったそうだ。そんな言い回しをするより「死んだ」「遺体が自宅に運ばれた」と書くべきだ、と。

 もちろん、その表現を知らない人には意味不明に感じるだろう。それに合わせて書く必要があるかが問題である。



 「他界した」「鬼籍に入った」という表現もある。

 これも「死んだ」という意味である。これに対して使うべきではないと言う人は、意味を知らないからではなく、知っていてのことだ。どちらも死後の世界に行ったという意味である。これに対して、死後の世界なんて存在しないから、そんなオカルト信仰の表現を日常の真面目な話をしている時に使用するべきではない、という人がいて、これは知っているから文句も出るのだ。

 これは医師が「ご臨終です」と言うのとは訳が違う。


 文学的な表現は喩えである。

 これがどんなにわかりやすくても、事務的な文書には不向きである。また、文学的な表現をする文書でも、例えば小説では、その表現を知らない人が読んでもわかる書き方であるべきだ。それで理解が深まるというより、それが読んでいて楽しくなる素だからだ。

 もちろん、そういうのを排して、内容を淡々と伝える文学作品もある。持って回った表現など気取っていて好きじゃない人もいる。だから「無言の帰宅」なんて言い回しは嫌いだと言う人がいてもいい。知らない人がいてもいい。

 しょせんは文芸なのだから、

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2025年8月30日
  • 読了時間: 3分

更新日:2025年8月31日

 週刊新潮の連載コラムで、元産経新聞の記者が露骨な差別を書いた。

 ここで名指しされた一人の深沢潮さんらが抗議したところ、この連載は打ち切りとなったが、新潮社に本当の反省や改善の意思が見られなかったので深沢潮さんは新潮社との契約を解除することにした。

 新潮社は、前にも月刊誌が杉田水脈議員の差別発言を掲載し、厳しく指弾された。もともと売れ行きが悪かったから何でもいいという調子で差別まで利用したという事情もあり、この月刊誌は廃刊になった。



 前に灰谷健次郎さんも、週刊新潮が原因で新潮社から著作の版権を引き上げた。

 これに対して幻冬舎の見城徹社長が、面白くないなら版権を引き上げるだけにして何も言うなと言った。世間にむけて抗議の意思表示をするなというわけだ。これはモノカキ風情が出版社を批判するな、こっちが売ってやってるんだ、ということ。

 この人は、その後も津原泰己さんにも同じように罵声を浴びせた。これは幻冬舎の出版物についてのことだったが、その手抜き編集を指摘されて面白くなかった見城徹社長は、前に津原泰己さんの小説を出版してやったのに売れ行きがよくなかったなどと、無関係な話をしたのだ。売ってやってると威張っていたのだから、売れ行きが良くなかったのは出版社の責任なのに。


 これは出版業界の体質だ。

 芸能人が、ジャニーズ事務所やバーニングプロダクションや吉本興業に逆らえないのと同じで、著者は大手出版社に逆らうと仕事ができなくなる。それで泣き寝入りする人たちばかりだった。

 今は亡き大江健三郎さんが、文藝春秋社の右翼体質に不快感をもっているのに我慢してばかりでいることを、当時朝日新聞の記者だった本多勝一さんに批判されていたけれど、これについて今は亡き森村誠一さんが言っていた。森村さんは731部隊を告発した『悪魔の飽食』を『赤旗』に連載ののちカッパブックスとして単行本にしたら、光文社は右翼の嫌がらせに屈して著者に無断で絶版にしてしまったので、光文社と絶縁した。光文社のカッパブックスは推理小説で付き合いが長かったから残念だと言って。そして文藝春秋社についても、その『悪魔の飽食』に関して嫌なことをされて右翼体質を思い知った。

 ただ、多くの著者は、そうした出版社の体質に無関心で、どれだけ読者との橋渡し役をしてくれるかに関心がある。その点でいうと、文藝春秋社は著者から見て魅力的だとは言える。

 そういうことだった。


 社員の問題もある。

 森村さんは、文藝春秋社内に権力へ擦り寄る社員がいて、それは一部だが「グリシャムの法則」が働いていると指摘していた。これと同じことを広瀬隆さんも言っていた。

 広瀬さんには、雑誌のインタビューで御自宅を伺ったことがあった。これは前に述べたとおり。そのさい、原発のことで文藝春秋社の雑誌から嫌がらせみたいなことを書かれたけれど、前に文藝春秋社から単行本を出したことがあるので社員たちに会って知っているから、「こういうことするのはアイツだな」と判ると言う。


 あと、自分の経験からハッキリ言えることがある。

 やはり大きな出版社の方が絶対に「払いが良い」ことだけはたしか。それでみんな我慢しているのだろう。  

 
 
 
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