- 井上靜
- 1月8日
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石破首相が伊勢神宮を参拝した。
石破首相は基督教徒だと公言している。かつては、大平首相が基督教徒であるから嫌がっていたのに自民党が無理矢理に伊勢神宮参拝させていた。
また、村山首相も無理強いされていた。自分の信仰とは別に、このような宗教を政治と絡めるやり方を批判していたのに強制されたのだ。
まったく、日本には信教の自由が無いということだ。

伊勢神宮を日本人は一般的に観光地と捉えている。
それを「お伊勢参り」と言っている。これを薩長が強引に国粋主義の政治的な施設にしただけ。そんなことに首相が今も付き合わされている。
ところが、これを日本の古くからの伝統だと強弁する人たちがいる。これが政治的意図からの悪意だけならともかく、何も知らずに善意で思い込んでいる人たちがいる。特に立憲党を支持している人たちなど。枝野幸男や蓮舫が観光ではなく盛装して伊勢神宮に参拝したのを、日本固有の文化を尊重する行為だから保守なんだと信じている。その勘違いを具体的に指摘されても理解不能である。
なぜ立憲党の支持者たちは物事を知らない人ばかりなのか。
もちろん、他の政党の支持者にも無知な人ばかり目立つけれど、立憲党の支持者は元々政治に無関心な人がテレビによって作られた雰囲気に乗せられている人たちだから、その政治的な見識が薄っぺらいのだ。
このため、枝野や蓮舫の行為がどんな意味なのか解らず、批判するのはかつての「社共」を支持している人たちで、信仰心がなく伝統を尊重しないからケシカランと思っている。
公明党は見過ごすようになった。
これは統一協会と同じで、内心では宗教的な見地から反対している。また、公明党の支持母体の創価学会は日蓮宗だから「神道は無力」と定義している。これに反している創価学会は、他の日蓮宗から「日蓮大聖人の教えを破ったので滅びる」と言われている。
それとは別の、日本人の一般的な信仰でも、例えば悪霊や物の怪を撃退するのは修業した僧侶などの念力であり、これは能に描かれているとおりで、神官や巫女の祓いや浄めなど形式的で効果が無いものとなっていた。
つまり偽物の伝統による無意味な行為に日本の政治が縛られているのだ。
これでは日本に運気が向くわけないし、悪者が寄ってきても撃退できないから、外交も安全保障も経済も危うくて当たり前である。