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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2022年11月10日
  • 読了時間: 2分

 大学院を出て博士号を取得したのちの「ポストドクター」(ポスドク)の話。

 この学位を取得しても食っていけない人たちがいるのは、昔から常識ではあるが、あまり話題にならない。なることがあるのは滑稽なことをする人がいる場合だ。

 例えば時々Twitterのアカウントで、自分の肩書に博士を付けている人がいる。そんな場でひけらかすなんて自己満足なのかコケ脅しなのか意図は不明だが、そんな可笑しなことする人がいるから、匿名のアカウントが本当か確認できない肩書や学位や受賞歴を掲載する冗談をやっているのだろう。本物で有ろうと無かろうと発信されている話の中身の程度は変わらないからだ。そして実名と肩書が本物である方が笑いものになる。

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 また、学位の意義について勘違いしている人もいる。

 せっかく博士号を取得しても、専門知識を役に立てられないとか、いちおう専門家である大学の非常勤講師や博物館の職員などと、コンビニやファーストフードの店員など単純作業や肉体労働の時給と、ほとんど差が無いとか、そんなことを不当だと言っている。

 しかし、学歴が低いため就職で不利になることならあっても、学位のおかげで就職が有利になることは稀である。とくに博士号は乏しい。むしろ、博士号のために売れない或いは売れても食えない芸術家と同じことになるほうが多いくらいだろう。


 それが解らない人がいる。

 そして、博士号を持っているのに生活保護では、ひどい世の中になったものだと嘆く。しかし博士号とって食えない人に生活保護なんて素晴らしく人道的である。

 これがナチスだったら、インテリなんて生意気だからと殺す。『シンドラーのリスト』や『ソフィーの選択』などの映画に描かれていたとおり。

 かつて中国で毛沢東はインテリを敵視したけれど、これは当時の社会情勢から、知識階級とは特権階級の一種であったし、知識が封建時代のものであるとか外国かぶれであるとかの問題があったからだ。それで行き過ぎた迫害があったけれど、ナチスは違った。ナチスは学問を非常に重視し、それゆえ学がある者は場合によって脅威となるので、そうなりそうなら邪魔にした。


 つまり、脅威にならないインテリだから生活保護なのだ。

 せっかく博士号を取得しても無力なので権力から邪魔にもされない。これで就職や給料が良いわけがない。「大学院にまで行って博士号を取得したのに」と嘆く方がよほど不当なのだ。


 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2022年9月20日
  • 読了時間: 2分

更新日:2022年10月16日

 角川書店には辞書もある。

 中学から高校まで、角川の国語辞典、漢和辞典、古語辞典を買っていた。どれも値段が手頃なうえ装丁が洒落ていたからだが、中一の時に同じ組の男子に「辞書にとって大切なことは内容の充実と使いやすさだ。デザインで買うのはバカ。角川の辞書で良いのは見かけだけだ。お前は勉強の仕方を解ってない」と言われてしまった。

 そいつは勉強に凝るほうだったから成績も結構な良さだった。それに対してこちらはマアマアというところ。それでも、ろくに辞書を使わず成績が悪い人たちから見ると、真面目にやっていて成績が良いほうだということになる。だが、とくに成績の良い人からすると追求が半端に見えるようだった。


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 たしかに角川書店の辞書は使いにくかった。

 そのため、よく考えると勉強に悪影響していたと思う。値段が手頃なうえデザインが良いけれど、そればっかりで中身が伴っていない、というのは角川書店が商業主義である証の一つかもしれない。

 また、辞書は受験なら旺文社で、実用なら三省堂だと思う。使っていて実感する。


 最近、英和辞典を買った。

 受験から日常の実用までの、やや大型の紙の本だけど、今のものは実に良くできている。検索とか機械の技術ではなく、こうした内容の進歩こそ重要だ。

 今の高校生が羨ましい。大学受験のとき、今の辞書があったら全然違った。この辞書を『ドラえもん』の「セワシくん」みたいにして高校生の自分に渡したい。

 あと、小型の国語辞典も買った。昔「ダットサン」と言われた民法の教科書があった。小型だが馬力があるという意味だ。そんな感じの小型辞典があったので。法学部教授をしている人が、商売柄、六法全書は毎年買い替えていると言っていた。しかし法律だけでなく国語も変わるものだから、時々は辞書も買い替えるべきである。

 もちろん、どちらも角川書店ではないものを。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2022年8月11日
  • 読了時間: 2分

 先日は、カルト宗教の問題は科学ではない、という話題だった。

 もともと宗教などは「鰯の頭も信心から」で良いのが原則だ。それを批判するほうがおかしい。そこで問題になるのは、対価が社会儀礼の範囲内であるか、範囲外でも支払いが納得してのことなのか、そうだとしても嘘で欺いていないか、の三点である。これに違反していたら詐欺になり、信教の自由ではない。なにか問題になる宗教は、絶対にどれかの違反をしているものだ。


 これはオウム真理教事件のさい在ったことだ。

 宗教の儀式で百万円単位の報酬というのを非難した人たちがいたけれど、信者が喜んで払うなら結構なことだ。外部から批判するほうが間違いである。

 ところが、この儀式には効能があって、これは京都大学の医学部で研究した結果だと言っていた。ところが、京都大学で研究したのではなく、京都大学の学生が学外で研究したということだった。嘘であったのだ。

 これを指摘されて焦ったオウム真理教は、指摘した弁護士を家族もろとも殺害した。


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 一学生の話が真実という御粗末は統一協会のシンパ学者にもいた。

 それが、渡部昇一上智大学教授が週刊文春で発表した「神聖な義務」であった。これを人気SF『銀河英雄伝説』が皮肉ってパロディにしていた。

 この「劣悪遺伝子の排除で社会が発展」という「ナチズムの功績」とは、渡部教授がドイツ人の医学生から聴いたことであった。一学生が個人的に説いたことを感心して受け売りする大学教授とは、いったいどんな頭の構造なのか。この滑稽さが解らない渡部教授よりは、オウム真理教は偏差値が高かった。少なくとも嘘をついていたと指摘され焦ったのだから。


 こんな人を文芸春秋社は右派の論客として重用していた。

 だから、元社員の立花隆が批判していたが、その後、渡部教授が統一協会のシンパを堂々と隠さなくなってくるにつれて、文芸春秋社は関わりを避けるかのようになった。

 その前だとしても、ドイツ人医学生の与太話を受け売りしてナチスの功績などと説いた人を医療機関が呼んで講演させたのだから、防衛医科大学校の良識も疑われて当然ではないか。

 ところが、ある医療問題の団体の中心的な女性から非難された。そういう話にアレルギーということだ。拙書に書いてあるのが気に入らないから改訂して出版し直せと失礼なことを面と向かって言われた。この女性は大学教授だと聞いたが、もしかすると同じく統一協会のシンパだったのではないかと疑っている。 

 
 
 
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