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​炬火 Die Fackel 

  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2024年11月5日
  • 読了時間: 3分

更新日:2024年11月6日

 『ゴジラ-1.0』が地上波放送された。

 これによって議論が起きていた。一作と同じように戦後すぐの時期に起きた事件という話なのに、核実験と文明批判が物語に無いということからの議論だった。

 いちおう、核実験が繰り返される場面と、その後から現れたゴジラが前と違っていることから、その影響はほのめかされてはいた。前に小笠原諸島の一つに現れた時は恐竜の生き残りのようだったのが、巨大化したうえ背びれが原子炉のように青光りしているからだ。

 しかし後半は、戦争について日本が人命軽視だったと反省しているけれど、核兵器には言及していない。

 


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 これは前半と後半とでドラマが不整合ということだ。

 この物語の主人公は、最初に前のゴジラを目撃しているのだから、その時の姿と異なっているゴジラについて証言することができたはずだ。そして、対策を立案した学者が核実験の影響を指摘して、ゴジラを退治したものの核実験が続けばまた現れるかもしれないと言うなら、警鐘となる。続編に向けてのことだろうが、死んだゴジラの細胞が少しずつ復活しそうである場面もあるのだから

 なんで、こんな簡単なことを脚本に書かなかったのか。あるいは脚本にはあったけれど削除されたのか。


 この映画の脚本は、あまりにも伏線の張り方が単純だ。

 なので、ことごとく、最後の結末まで伏線の部分で完全に判ってしまう。そこで核実験の場面があるのだから、後半では一作と同じように「核実験が続けばゴジラはまた現れる」と言うセリフを、志村喬に代わって吉岡秀隆の学者が言うとばかり思っていたのに、それが無い。

 まったく不可解であった。


 あと音楽の使い方も疑問だった。

 ゴジラの場面で『モスラ対ゴジラ』の音楽が流用されていたが、そこでゴジラのモチーフが終わり続けてモスラのモチーフになるのに流れ続けるから、それは動機が違うぞと言いたくなる。しかも動機というだけでなく元は歌詞も付いているメロディーである。「♪マハラ-マハラ・モスラー」のメロディーがゴジラの映像に被さり違和感で、もちろんモスラは出ない。

 もっとも、これは気づかない人の方が多いのかもしれないが。


 『シン・ゴジラ』『ゴジラ-1.0』が好きではない。

 しかし、かつての『ゴジラ対ビオランテ』なんかよりは、遥かに面白かった。『ゴジラ対ビオランテ』は、公開当時、観た外国人から「日本映画は、ここまで堕ちたか」と言われるくらい出来が悪かった。

 ただし一部では『ゴジラ対ビオランテ』を凄く面白かったと言う人たちがいて、このため「傑作」と称賛する向きもある。これはゴジラの映画をエンターテインメント化したということで画期的だったからだ。

 つまり、誰にとっても、出来不出来より好みの方が優先される、ということである。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2024年10月24日
  • 読了時間: 2分

 映画評論家の白井佳夫が死去した。

 この人と、映画評論家の山田和夫とは犬猿の仲だった。例えば『橋のない川』の映画化で、今井正監督が続編の脚本をめぐり部落解放同盟の一派と対立したのち、別の監督によってリメイクされたものが、ふるっているとは言い難いのに白井佳夫が褒めていたので、山田和夫は白井佳夫の態度を批判していた。

 つまり党派対立である。


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 山田和夫は共産党員であった。

 それで、共産党員の山本薩男監督と今井正監督の作品は無条件で褒め称えるような批評をしていた。また、部落解放同盟の浅田善之助が中心の浅田派は、最初、浅田善之助が共産党員だったけれど部落解放運動の中で路線対立して離党したのち、脚本を書いているのが共産党員だから悪いと非難し、今井正監督から、自分は共産党員だが脚本家は共産党員ではない、と言われて途端に、監督が悪いと言って非難の矛先を変えた。

 これだから映画の内容とは関係なく、滑稽であった。


 原作者の住井すゑは指摘されていた。

 浅田善之助は共産党に恨み骨髄だから、共産党と関係があれば片っ端から攻撃している。なんてことはない、共産党が憎いだけ。それも自分個人の昔の恨みから。

 この一連の揉め事について、解放同盟浅田派を山田和夫は厳しく批判していた。そして、ふるっていないリメイク版を白井佳夫は党派対立の都合で褒めそやしていたから、評論家としての姿勢が問題だと言っていた。


 並木鏡太郎監督の甥が山田和夫という。

 しかし同姓同名の別人である。そうとは知らず「並木鏡太郎監督の甥の映画評論家」と言ったら、並木鏡太郎監督の助監督を二回務めた山際永三監督から、そんな人は居ないと言われ、山田和夫は甥ではないかと訊いたら、同姓同名の別人と指摘された。

 そして山田和夫に『前衛』誌上で「トロツキスト山際永三」と書かれたので、山際永三監督は怒っていた。

 こういう党派対立が、映画批評にもあるということだ。

 
 
 
  • 執筆者の写真: 井上靜
    井上靜
  • 2024年9月24日
  • 読了時間: 3分

更新日:2024年9月24日

 SF映画『猿の惑星』で、文明を持つ猿が英語を使っている。

 ただ英語を話しているだけでなく読み書きもしている。これについて、降り立った宇宙飛行士(チャールトン=ヘストン)が疑問を持たないのは変だと言う人たちがいた。そんなことを、まだ言っているのかと言う人もいて、そう言う人たちは、ドラマのご都合主義にツッコミ入れてもしょうがないと思っているそうだ。

 むしろ、ご都合主義だと、まだ言っている人がいる方に驚かされる。


 昔と違って、今は大体の映画を公開当時に近い形で鑑賞できる。

 だから、ビデオさらにDVDとなったら、ノーカットで画面のサイズもほぼ同じ、テレビも大画面で、音響だってステレオはもちろん立体音響も昔は別売だったドルビーシステムなど普通に内臓されている。

 もちろん不適切な翻訳もあるが、その程度なら映画館でもよくあった。また、テレビで放送されるのに比べればデタラメな訳は少ない。テレビで放送されるとCМなどのためカットされ、それを補うため翻訳でつじつま合わせしてセリフの訳を改竄してしまうから、それで奇妙なことにもなる。

 それなのに、昔テレビで見たときの印象のまま今も語る人がいる。


 『猿の惑星』の英語は、きちんと見れば次の通りである。

 猿の政治指導者は、英語について、昔から猿の社会で使われていた言葉であると言うが、これに対して宇宙飛行士は、自分のような者が持込み、猿が真似たはずだと言う。

 そして立ち入り禁止の場所に行くと文明の痕跡があり、どう見ても人間の文明であった。そこには動かすと音が出る女の子の人形があって「マミー」と言う。こんなものを猿が作るわけがない。英語を使う人間の文明が、かつてここに在った。地球から来た人間が、この星でも文明を築いたけれど、この様子では戦争で自滅したのだろう。その後、猿が人間の残した文明を真似して進化した。これを隠ぺいするため、この一帯は立ち入り禁止になっていた。


 猿の政治指導者は軍隊に命じて遺跡を爆破させる。

 猿の若い学者は「真実を葬ってしまったら、未来はどうなります」と抗議するが、政治指導者は跳ね除ける。「未来を安泰にするためだ」

 爆破のあと、去って行く宇宙飛行士を猿の兵士たちが追撃しようとするが、追うなと猿の政治指導者は言う。遺跡を爆破したから、他所から来た人間が一人では何もできまいということだ。

 そして、あてもなくさまよう宇宙飛行士の前に、傾き埋もれた自由の女神。彼は地団太を踏んで嘆く。

 「帰っていたんだ。人間なんて、みんな地獄で苦しめ」


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 『猿の惑星』に限ったことではない。

 他の映画でも、テレビで放送されたさいのデタラメや改竄がオリジナルだと思い込んでいる人たちがいる。そんないい加減に作られた映画など、むしろ珍しい。かつて映画が斜陽化する前に優秀な人材が集まって作られていた時代だったのだから。

  

  

 
 
 
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