- 井上靜

- 2024年2月29日
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先月また回想があった小林多喜二の拷問死は、権力による弾圧の代表だろう。
これについて、その遺族が訴えなかったのが変とか言う人が出ている。そんなことが出来ない状況だったことが理解できないほど呆けた人がいるということだ。
しかし、時代を知らぬ人がいるだけではない。
戦後も、今の2020年代でも、少しも変わってないのだ。
もちろん死傷者も出ている。みんな怖いから知りたがらないとか、社会に幻想を持っていたいとか、それで警察の暴力事件は相変わらずなのに「見ざる聞かざる言わざる」なのだ。精神的に耐えられない人もいて、その中には弁護士までいる。この問題は前に「ドラえもん弁護士」として述べた。ネズミを捕るつもりでネコを飼ったけれど…と。

でも、今は監査制度があるじゃないかと、勘違いして言う人もいる。
ところが、警察も公安委員会も情報開示請求をはねつけ、裁判所も警察の味方ばかりして、訴えの握り潰しもやっている。これでは暴力の横行は当たり前である。
例えば、県公安委員会のメンバーは知事が任命していて事実上の名誉職と化し、置かれている場所も警察内、独立性は皆無で何から何まで身内である。
司法が進歩的な外国でやっているように選挙するべきである。
そう昔から言われているが、知能の劣る一般人などに何もやらせられないと言うのが常である。大学の法学部で元検察官の教授が、そんなことを大真面目かつ生意気に語っていたが、もしもその場に被害者がいたら教授はぶん殴られていただろう。
そいつに言わせると、拷問も愛の鞭であり、冤罪など存在せず、なぜなら自分がやる分には総て正当化されると信じているからだ。
そこで深刻なのは、警察の暴力に遇った人の多くが精神に異常を来すことだ。
だから告白できないのはもちろん、権力に操られてしまったり、他の被害者を見て嘲笑うようになったり、という例が色々とある。
それで、ますます隠蔽されてしまうのだ。困ったことだが、これを打破しないことには何も解決しない。みんな、もっと覇気が無いといけない。


